昭和52年07月13日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ、信心とは、わが心が神に向かうのを信心と言うのじや。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり、信心なければ世界が闇なり。」
世の中が明るうなる様な信心とはどう言う信心を言うのであろうか、信心なければ世界は闇だとおっしやっておられる、ならその闇が世界の光、いわゆる光明世界と思われる様な世の中になるためにはどう言う信心をすれげ世の中が明るうなるだろうかと、先日から私の歯が全部駄目になってしもうて、ずいぶん永くかかりましたから久留米の何か有名な麻生さんか、と言うお医者さんにずうっと連れて行って貰いまして、たくさんのお金をかけてできました。
どうもその具合がいかん三、四回直しに行きましたけれども、どうも気の毒してから悪いと言いきらん性分です私が、ですからもうよく合わんなりに私が辛抱しておりましだ。それを久富繁雄さんが見兼ねてから息子に造らせましょうち言う。二番目の息子が福岡で技巧士をしております。大変おかげを頂いてます。なら私はまたお願いするとは言わなかったけれどもまあ繁雄さん話された。それですぐいろんな道具をもって私の歯の型を取りに来てくれました。
もう本当に歯医者と言えば永い間時間をかけなければならないと思ったのが三、四回来て来れましたでしょうか、そして造って来て呉れたんです。質もプラチナを使ってありますからこんど出来たのもプラチナであって、同じ同質なもので造ってくれた。所が今度は又合わないガワガワです。そこで繁雄さんが一幸さんと言いますが、一幸さんに言っておられる事なんです。俺はお前が親先生の歯をやって呉れると言うから楽しんでおったと、でもお前がこんどやりそこのうて俺はガッカリしたと。
これは一幸いっちよ愈々信心でおかげを頂かねば、親先生のあれはお前がしよると見たらもう親先生の口の中でん何でんこうやって手を入れちから、もう手でん何でん清めた上に清めち、そして親先生と言う気持ちで合掌して、このごろ若先生が大祓い式の時仰ろうが。気を入れてと仰っとるが、お前がこの歯に気を入れとらん証拠に、見掛けだけはこんなに立派に出来とるばってん親先生の口に合わんだろうがと。もう一遍造り直せともう一遍おれがお願をしとくからお前も気を入れて造り直せと。
それからまた取り直してからやってみられた。そして昨日でしたでしょうか一昨日ですか出来上がって持って来てくれましたが、ピッタリ合うんです。だからこれに研きをかけてならもう一日待って下さいと言って、その翌日研きをかけて持って来てくれましたら、もう本当に今まで何回も入れましたけどこんどの様に合うことはない様に合っている。いやそれでも必ずどこか痛い所が出て来ましょうからその時はまた少し削りますからと言っておりましたけれども。
もうそれっきり痛みもしませんし、初めてその日から(笑)たくわんが食べられる様になり、お肉が食べられる様になりました。本当に真心とか真とか言うけれどもです、本当に御用として繁男さんが言われた俺は、もう二十数年間親先生の御用をさせて頂きよるけれども、一遍だつて足を揉ませて頂く時拝まんでした事はなかった。お前がつはまるっきり道具ばし扱ひよるごと、親先生の口の中ばもうそげなこつじゃでけん。
本当に親先生御用さして頂きますという気を入れてもう一遍造り直せと言うのが、それこそ一遍ででけたんです。そしてさわるところもない。私は思うのですけどね、今日の御理解から頂いてです。我が心が神に向のが信心と仰ったが、なら一幸さんが初めの間は自分の技術、その時親先生ががまあ言うなら喜びなさるごと、よう言うならびっくりしなさるごと、立派なものば造ると初めは言いよったそうです、だから自分が造ると言う時には合わなかった。
父親からその事の注意を受けて自分としてもそれこそ父親がもうお前が造って来て合わせたが もうガッカリしたと言うのがガクッときたんてす。折角ならば親先生に喜んで貰ふと言うことは、父親が喜ぶことですから、なら父親が言う通りに福岡から家族を連れて月次祭にはかならず参って来ます必ず。けれども本気で信心の稽古をしとらんからそう言うところが分からん、まあだ自分が出とる、私がして上げますと言うものがある。父親にそのことを言われてから本当に気を入れとらなかった。
もうとにかく一から十まで自分でしておった。神様御願いします御用さして頂きますと言う、なら真心いっぱいでしかも親先生が喜ばれる所ではない、今度も失敗したら又親父がどんなにガッカリするやら分からんと思ったから一心を込めた。そりやもうしっかり拝んで、その今まで口の中に手を突込んでせんならんでも、もう大変小心にやるそれで、ははぁ今度は気を入れとるな、心を入れとるなと私も感じておりました、おかげで出来て一遍で言うならキチット合う様になった。
いいえ確かに痛い所が出てきます、だからでて来た時はまた、あの削らせて頂きますからと言ったけれども削る所じやない、もう一遍ぎりはめたっきりおかげを頂いた。しかも調子がよい。初めて言うならばタクワンでも、お肉でも食べられる様になる様な私はおかげを頂いたんですけれども、だから段々信心が分かって参りますとね、こと神様こと信心と言う時には、仲々皆が一心になります。
私共もそうでした、いつも例話に申します様に、私の修行中の時分にそれこそ食べるに食がない、衣がない時代がありましても、御本部参拝だけは、月参りの御本部参拝だけは欠かしたことがなかった。御大祭ともなればもう勿論御用なんかも体でするのは勿論ですけれどもまず、お供えそすと祭典費を必ず御願い通りにおかげを頂いた。御本部参拝と言うことになればもうそれこそぎりぎり汽車の時間に間に合うか合わんと言う時でも、もう不思議な不思議な働きを頂いた。
そこでなら御本部参拝と言う事がこんなにも神様が喜んで下さる事だからこそ、おかげ下さるんだと。御大祭に打ち込むと言う事が神様の心に適うから、神様がキッチリとおかげ下さるのだ。外の事はどっこい願うても右と願えば左、左と願えば右となる事も、こちらの信心全体が、生活のすべてが神様の心に適う行き方になればこの通り、切って繋いだ様なおかげが受られると確信しだしたんです。そして自分の生活のすべてを改めて行くと言う行き方にならせて貰い。
起きてくる全ての事をなら合掌して受けていこうと言う行き方まで段々なってきたんです。私は世の中が明るくなると言う事は、例えば一幸さんが私の歯をさせて頂く。初めの間これは勿論あの他の仕事をさせて頂くでもです、自分がすると言う仕事では我がでます。そこに光のともりようがありません。親先生のあの歯を二度目にさせて貰ふ時の様な心持ちで、自分の生活のすべて、言うなら是から歯を造らせて頂くその全ての時にです。
親先生の歯を入れさせて頂いた時の様な気持ちで。
どうぞお客さんが喜んで頂く様に、これを使うて下さる方が喜んで頂く様に、言わば神様御用さして下さいと言う祈り願いをもって、例えば私の歯をした時の様な気持ちで、全ての御用が出来る様になった時、初めて世の中が明るうなると言う事はそう言う事ではなかろうかと思うんです。私が何十年前にサア一御大祭だ、御本部参拝だと言う時の思いと言うのは一心であると同時に、その事は神様がお喜び頂ける事だから神様が間違いなくおかげを下さった。
そこで私がいわば悟らせて頂いたのは、御本部参拝とか、又は御大祭と言う事になればこの様な不思議なおかげを下さる神様であるから私の生活の全てがなら、神様の心に適う行き方になった時初めて、こう言う切って繋いだ様な、言うならば間違いのない必要なものが必要に応じて頂ける程しのおかげとは、そう言う生活の信心生活の状態になってきた時だと。そこでなら自分の行き方と言うものを丁度神様に向う様に御大祭の時の様な気持ちで、御本部参拝の時の様な思いで務めさせて頂く様になったら。
今日の合楽があるのです。だからそう言う人達がです、なら今金光教の信者が五十万あるとするなら、ならその五十万の信奉者がです、先程一幸さんの例を取りました様に、その頂いておる御用の一事一事にです、親先生に喜んで貰うためには成る程、自分がしておった、自分が造った神様に造らせて頂く御用を頂くという気持ちで、もう態度から変わってくる程しのおかげを頂いた。初めのなりでもし出来て立派だったら口では勿論言いませんけど、ああ俺の技術も大したもんだと思うでしょう。
けどこの技術はもう一幸さんの技術ぢゃない、御用に使うて頂いただけであって、神様がお働きくださって自分の考えではどうでも、もう一遍位削ったりせなんぢゃろうと思っておった、その時にはと言うとったけれどもその必要ない様にピッタリおかげを頂いとると言う事実からです。ならこれから沢山手がけて行くだろう、ならこの歯を造る事に於いてです、久富一幸さんが造った歯だけは一遍で、もうピシャリ出来ると、言うなら勿論その技術は買われると同時にそう思い方で御用さして頂くと言う事か。
の中の光になるのじゃないでしょうか。昨日の昼の御理解におかげは受け徳、受け勝ちと言う今黒板に掲示してありますね、あれを頂いた時に頂きました事が、魚釣る人見てる人と言う事を頂いたです。魚釣る人見てる人と言うのです、おかげは受け徳受け勝ちと言う大変短いけどどうでも分からない、まあその教えの持つそのイメ一ジと言うものをにピッタリする感じでしょう。魚釣る人見ている人何におかげは受け徳、受け勝ちと言われても、そこにはそこにあるものサア一誰でも持って行って下さい。
持って行った者勝ちですよと言った様なもんじゃないと言う事。受け徳のおかげを頂く、神様天地の親神様はもう限りなくおかげを下さろうとしているおるのです。それこそ無尽蔵です、その無尽蔵のおかげを頂く為にはです、まずは自分が魚釣りの支度をせねばできんでしょう。ご心眼に丁度筑後川の様な浅くてこの位の所に入ってそして鮎かけか何かしておる様な感じで魚釣りをしておる所をご心眼に頂いた。こっちの土居の堤防の方から、一人ちゃんと腕こまねいてから釣りよるとを見よると言う様な情景でした。
それを頂いた時に、ははあこれは受け徳く受け勝ちと言うのはこう言う事だなと実感して貰うた。それこそ筑後川には限りなく魚がおるでしょう。その限りない魚を限りなく頂いて行くためには、まず川に下りなければならない、釣り竿もえさも用意しなければならない。同時に釣りには辛抱がいると言うが矢張りその辛抱力を鍛えながら、それこそ釣り三味の境地がひらけてこなければならない。釣れる釣れんは別その釣っておるその事自体が有り難いのである楽しいのである。
だから釣り三味と言う、言うなら信心三味と言う事を言うが只御神前で拝み続けておるだけではないと言う事。お道の信心はその生活の全体が神様に向かっておらなければならないと言う事。それを合楽では信行だといわれている訳です。心にかけておる行はいつてもどこでも出来ておる事なんだから。成る程限りなく釣り上げる事が出来るでしょう、十匹頂けばもう自分のもの、百匹釣ればもう百匹がそのまま自分のもの、成る程受け徳く受け勝ちと言う事が分かるでしょう。
天地の親神様は限りなく下さろうとするおかげ、それをここにあるから早く持ってけ持ってけと言う様なものではないと言う事。限りなく頂けるのは私共が限りなく頂こうと言う姿勢をつくらなければならないと言う事。堤防の上から腕こまねいて、只じっと人の釣っておるとを見てああよく釣るるなと、見てるだけでは一匹も貰えもしませんよね。私は信心はこれだと思うんです。
そこでなら今日はです私共の信心、一人一人の信心が小さくてもです、自分の周辺を明るくする位な一つ光を頂きたいと言うのですけれども、私一人のために相手が真っ暗になったり、相手をいら々させたり、腹立たせたりと言った様な行き方はで、す如何にそれに反するかと言う事が解ります。とにかく自分が信心の力を頂きお徳を頂き光を頂かなければなりません。しかもその行き方とはです、丁度一幸さんが私の歯を入れて下さる時にです、初めの方は自分の技術を親先生にも認めて貰う。
親父が喜ぶそげな事は考えなかった。もう親先生に私はこんなにうまいですよと言う風に、見せたいばっかりの様な感じで、それこそ慣れた手つきでやりましたけれども、どっこい、それが合わなかったと言う事。親父にその事を言われて、信心でしよる気を入れてやれ。私は二十何年間も親先生の御用させて貰いよるばってん一遍でん御用する前に御祈念せんで御用頂いた事はなかぞ。お前を見ておるとどうもあんまりろくそうなか、それこそ親先生の口の中に手を入れる事だけでも勿体なか。
それを勿体ないと言う気持ちで気を入れて、俺も一生懸命お願いするからお前も一生懸命御祈念してやり直せと。ならもう一遍やり直そうとやり直したら一遍でピタッきたと言う事なんです。だからそれが私にしてくれる時だけでなくてです、これからいくらも手立てして行くであろうなら他のお客さんの上にもです、私の御用を頂いた様な気持ちでさして頂いたら素晴らしい言うなら歯が出来て来るだけでなくて、そう言う行き方が全て、八百屋さんなら八百屋さん。
魚屋さんは魚屋さん、お百姓さんはお百姓さんでです、そう言う気持ちで今日もどうぞ御用さして下さい、お許し下さいと言う様な行き方がそのまま社会を明るくする事だと思うんです。信心無ければ世は闇なりと仰る。ならその信心とは今日私が皆さんに聞いて頂いた様な信心を持って私は本当の信心だと私は言えると思うんです。同時に魚釣る人見ておる人只頼んどるけん良かぢやいかん。
私がするぢやいかん、無尽蔵である限りないおかげ頂きたいと思うなら、自分が愈々それをやるための諸準備をまず完了しなければなりませんし、同時にそこに釣り辛抱と言われる辛抱もさして貰うてそして、限りなく釣り上げさせて貰えれるおかげ、それをおかげは受け徳受け勝ちとおっしゃつただと。そう言う生き方を身に付けて行く事が、とりも直さず世の中に光をもたらす事であると同時に世界は、闇なり信心なければ世界は闇なりと、なら信心しとる者金光教だけぢやありません沢山ありますよ。
宗教のない国ちやまずないでしょう、ならそう言う人達がいくら百、千万、億万おった所で明るくはならないでしょう、お道の信心に依ってならと言う事で、お道の信心を頂いとっても、今日私が皆さんに聞いて頂いた様な所を、自分のものにして行かなければ、世を明るくする事は出来ないと思うですね。、自分の周辺すら明るくする事は出来ないと思うですね。
どうぞ。